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鑑真とは?日本へ来た目的とは? | 仏教の世界
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鑑真とは?日本へ来た目的とは?

この記事は5分で読めます

 

 

中国の上海から鹿児島まで直線距離で約900KM。

 

船の技術も現在とはまったく違う、1300年前。

 

天気だって、予想不可能です。

命がけで、中国から日本の仏教発展のために海を渡ってくれたお坊さんがいます。
 
それが、鑑真(がんじん)です。

何のために?そこまで命をかけてくれたのか?調べてみました。

それでは、どうぞ!

 

鑑真(がんじん)とは?

鑑真というお坊さん。

歴史の教科書では、必ず目にする有名人です。

なぜ有名かご存知ですか?

鑑真は、日本の仏教の教えを広める原動力となった方なのです。

律宗(りっしゅう)という仏教の宗派の開祖である鑑真は、中国揚州(ようしゅう)の出身です。

 

14才の時に、父が教えを受けているお坊さんの知満禅師(ちまんぜんじ)がいる大雲寺(だいうんじ)というお寺にお参りした際、そこで見た仏像に心を動かされ、出家したと伝わります。

 

鑑真さんは、21歳の時、長安にある、実際寺にいるお坊さんである、弘景律師(こうけいりっし)を、和上(わじょう)として具足戒(ぐそくかい)を受け、正式な僧侶となりました。

※和上とは、戒律を伝えるお坊さん(高い位の僧)のことです。

 

その後、天台宗(てんだいしゅう)の教えのほか、唐のお坊さんである道宣(どうせん)が始めた戒律の学である律宗(りっしゅう)も学びました。

 

そして、40代半ばまでに4万人もの僧を受戒し、写経3万3千巻を残すなど、唐の地域である華南・華中では比類なき高僧として知られるようになっていました。

 

受戒とは?具足戒や和上とは?

受戒(じゅかい)とは、仏教教団に入った証として戒律を受けることです。
また、戒律を受ける(伝えられる)側の呼び方です。

逆に、戒律を授ける(つたえる)側からは、「授戒(じゅかい)」といいます。
お師匠さんの立場から、戒律を伝えることです。

具体的には、戒壇(受戒する場所)で戒師(戒を伝えるお師匠さん)に終生戒律を守ることを誓う儀式です。

在家信者は、1人の戒師から五戒(ごかい)や八斎戒(はっさいかい)を受けます。
出家信者の場合は、戒師を含む10人の僧(おぼうさん)の前で、具足戒(ぐそくかい)を受けます。

戒律とは、お釈迦様が教えを広めていくなかで、教団の規模が大きくなると、さまざまな問題が生じてきたので、教団の規則を作って行きました。

それが戒律です。

戒は、修行時の心がけ、律は、教団の規則です。

この中で、在家信者が守るべきは、不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不妄語(ふもうご)、不飲酒(ふおんじゅ)の五戒です。

これに、1日限定で守る3つの節制を加えたものを八斎戒といいます。

3つとは、歌舞をみたり、化粧や装身具で着飾ったりしない、心地よい寝具で寝ない、決まった時間以外に食事をしないの3つで、これを守ることで、出家の修行者の生活に近づけるものとされました。

一方、出家信者の戒律である具足戒(ぐそくかい)は、音を立てて食べないなども含めて、男性の出家者である比丘(びく)が250戒、女性の出家者である比丘尼(びくに)が348戒あると言われています。

 

鑑真は、この具足戒に加えて、大乗菩薩戒(だいじょうぼさつかい)という戒律も伝えました。

これは、梵網経(ぼんもうきょう)と呼ばれる大乗経典に由来し、五戒を含む重要な十戒と、比較的軽い48の十重四十八軽戒からなります。

この大乗菩薩戒は、中国の天台宗の祖、智顗(ちぎ)が重視したことから、日本の天台宗にも影響を与え、最澄(さいちょう)も比叡山に大乗戒壇を設立しました。

具足戒を受戒する場合、結界などを施した戒壇(戒を受ける場所)を設け、戒和上(かいわじょう)、教授師(きょうじゅし)、羯磨師(こんまし)と7人の証人からなる「三師七証」(さんししちしょう)の前で戒律を守ることを誓う儀式が行われます。

その際の戒和上とは、授戒の師となる(高)僧、作法を教えるのが教授師、読み上げ役が羯磨師です。

これに対して、大乗戒(菩薩戒)では、儀式が簡略されることが多く、戒和上などではなく、仏や菩薩に戒律の遵守を誓うだけの場合もある。

ちなみに、お坊さんの呼び方ですが、宗派によって違います。

律宗や浄土真宗は和上(わじょう)で、同じ読み方ですが、法相宗と真言宗は和尚、華厳宗や天台宗は、かしょう(和尚)、禅宗や浄土宗は、おしょう(和尚)と呼びます。

鑑真さんは、和上(わじょう)です。

 

何故失明したの?日本へ来た目的は?

 

時は、奈良時代。
そして、当時の天皇は聖武天皇でした。
 

聖武天皇は、当時の首都である平城京に東大寺を建て、仏教による国家の統一を目指していました。

仏教には、僧侶(お坊さん)の存在が必要ですよね。

 

でも、お坊さんになるためには、お釈迦様の時代から伝えられてきた戒律を、正式に受け継いだ先輩の僧侶から、伝えてもらうことが必要です。

 

当初の僧侶たちは、戒律を授かるために、朝鮮にある国の百済(くだら)や中国(当時は唐の国)に渡りました。

 

しかし、航海は命がけの危険な旅でした。
また、時間もかかりすぎたのです。

 

本格的な仏教国を目指すには、日本国内で戒律を授かるのが理想でした。

でも、当時の日本にまだ戒律を授けられる(伝える)ことができる者「三師七証(さんししちしょう)になれる僧」がいませんでした。

そこで、どんな事が起こっていたかというと、勝手に僧尼「おぼうさん(男性)や、あまさん(女性)」になる人が現れたのです。

簡単にいうと、自称おぼうさんが出てきたから、大変です。
 
何が正しい教えか、わからなくなってしまう状態に、日本の仏教社会がなってしまったのです。
 
 
そこで、聖武天皇は、唐から戒律を授けられる僧侶に来日してもらうよう、ふたりの僧侶を唐の国へ派遣しました。

二人の僧、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、当初、鑑真の弟子の派遣を依頼しましたが、弟子たちは命の危険をともなう航海に躊躇(ちゅうちょ)の姿勢をみせました。

やはり、命がけの旅はビビりますよね。
当時は、今の様に気象条件も予想できない時代です。

まさに行き当たりばったり、先の見えない旅。
必ずたどり着けるとは、みんな思っていません。

 

たどり着けたら、ラッキーくらいの覚悟が必要でした。

私だったら、とてもいけません(笑)。

すると、なんと鑑真さん自身が来日を名乗り出たのです。

めちゃくちゃ、かっこいいですよね。
しかも、年齢は55歳。

お弟子さんも沢山いて、高僧という身分もあり、残りの人生を、本当にお弟子さんの育成など充実した余生を生きることも可能でした。

しかし、命をかけて日本仏教のため、渡航を決意してくれました。

その時(742年)当時、唐から国外への旅行は禁止されていました。

そこで、鑑真さんは密航(みっこう)を企てます。

国の命令に背いてまで、日本へ来てくれる。

 

なんて、嬉しいこと。

ますます、尊敬しますね。

この時に鑑真に従ったのは、栄叡と普照のほか、15人の弟子と画家、彫刻家、刺繍工など含めた185人で、唐文化の輸出とも言える大集団でした。

とても、密航とは言えませんね(笑)。

それだけ、みんな鑑真さんが好きだったのだと思います。

でも、失敗の連続でした。

 

一度目は、出発前に密告されました。

当時、高僧となっていたため、多くの門徒が出国に反対していたからです。

たしかに、尊敬する大事な師匠が命がけであれば、行くのを止めますよね。

二度目は暴風に遭い、引き返さざるをえなくなりました。

よほどの決意や信念がないと、ここでめげてしまいますよね。
私であれば、あきらめる理由を見つけていると思います。

三度目も出国をおもいとどまらせようという門徒に引き留められて断念しました。

かわいいお弟子さんの言葉を大切にされたのだと思います。
でも、決心をなくすことはありませんでした。

四度目も弟子が密告したため、失敗しました。

やばい、またばれてしまったか。
仕方ない、またチャレンジするかという気持ちだったと思います。

五度目は出港することができ、風待ちをするなど念入りに航海を進めました。
しかし、暴風雨に遭って漂流。
中国南部の海南島に流れ着きました。

途中、弟子の祥彦(しょうげん)や栄叡に先立たれ、自らも失明する不幸に見舞われました。

しかし、鑑真は渡日をあきらめませんでした。

これほどまでの苦難に遭いながら志を貫いたのは、鑑真さんが戒律の大切さを知っていたからでしょう。

六度目の挑戦は753年。

藤原清河(ふじわらのきよかわ)を大使とする遣唐使一行の帰りの船に乗り合わせる事が叶い、再び暴風に遭いながらも、薩摩に無事到着。

渡日の決意から12年目、ようやく日本にたどり着けました。

年齢は66歳。

鑑真さんが日本の土を踏んだ時の感動は、おそらく想像できないくらい大きなものだったと思います。

66歳は、今の社会でも隠居する世代です。
めちゃくちゃ、尊敬しますね。

当然、国をあげての手厚い歓迎を受けました。

翌年正月、以後、戒律の伝律(つたえること)は、鑑真さんに一任するとの詔を聖武天皇から下されました。

この日をもって、日本律宗が開宗となりました。

鑑真の来日により、東大寺に初の戒壇院が設けられ、鑑真は聖武天皇をはじめとして、400人以上に戒律を授け、日本の仏教界に秩序がもたらされました。

東大寺のほかに、下野薬師寺(しもつけやくしじ)と太宰府観世音寺(ふかんぜおんじ)にも戒壇院が設立され、自らが創建した唐招提寺(とうしょうだいじ)を律学研究の道場として多くの僧を教導し、日本に授戒制度が整えられたのです。

鑑真さんのおかげで、日本の仏教はようやく第一歩を踏み出せることができました。
その後、鑑真さんは、唐招提寺の住職となり、763年、76歳で波乱の人生の幕を閉じました。

 

鑑真とは?~まとめ~

 

鑑真さんについて、まとめてみました。

 

1.鑑真さんは、中国(唐)で比類なき高僧として知られる存在だった。
2.日本には、当時授戒できるものがいなかったので、正式に僧となるためには唐へ渡る必要があ

った。
3.聖武天皇により、日本に授戒できるものを呼ぶことになった。
4.唐に派遣された二人の日本の僧、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は、鑑真の弟子の派遣

を依頼した。
5.弟子から断られたが、鑑真さん自身が来てくれることになった。
6.5回の失敗にも拘わらず、諦めないでチャレンジし、6回目に日本へ来れた。
7.日本で授戒する場所(戒壇院)を東大寺、下野薬師寺、太宰府観世音寺に設立。
8.自らが創建した唐招提寺を律学研究の道場として多くの僧を教導。
9.76歳で亡くなるまで、日本の仏教の第一歩を支援してくれた。

以上です。

鑑真さんの熱意や思いが、今の日本の仏教の礎になっていると思うと改めて、鑑真さんに感謝したいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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